2026年8月21日、JAXAと東北大学は、宇宙で飼育したマウスから得られたデータや生体試料を研究者が幅広く利用できる「宇宙生命科学統合バイオバンク ibSLS」が本格稼働したと発表しました。
ibSLSは、国際宇宙ステーション(ISS)の日本実験棟「きぼう」で行われたJAXAのマウス宇宙ミッションから得られた情報をまとめた研究基盤です。
複数の宇宙実験のデータを横断して検索・比較できるだけでなく、JAXAが保管する生体試料を使った研究にもつなげられるようになっています。
宇宙で得られた貴重な研究資源を一度きりの実験で終わらせず、さまざまな分野の研究者が新しい視点から活用できる仕組みです。
宇宙では体にどんな変化が起こる?
宇宙飛行中の体は、地上とは大きく異なる環境に置かれます。
代表的なのが「微小重力」です。
地上では常に重力に逆らって体を支えているため、骨や筋肉には継続的に負荷がかかっています。しかし、宇宙ではその負荷が大きく減ります。
その結果、宇宙滞在では、
- 骨量の減少
- 筋肉の萎縮
- 代謝の変化
- 免疫機能の変化
など、さまざまな生体変化が起こることが知られています。
さらに宇宙では、地上とは異なる放射線環境などの影響も受けます。
将来、より長期間の宇宙滞在を安全に行うためには、こうした環境が生体にどのような影響を与えるのかを詳しく理解する必要があります。
なぜマウスを宇宙で調べるの?
マウスを使うことで、宇宙環境が骨や筋肉、代謝、免疫などに与える影響を、組織や分子のレベルまで詳しく調べることができます。
地上に同じ条件のマウスを用意して比較したり、宇宙から戻ったあとに臓器ごとの遺伝子や代謝物の変化を調べたりすることもできます。
JAXAでは「Mouse Habitat Unit(MHU)」と呼ばれる装置を使い、ISSの「きぼう」で複数回のマウス宇宙ミッションを実施してきました。
こうした実験によって、宇宙環境に対して体のさまざまな組織がどのように反応するのかを調べています。
宇宙実験は簡単に繰り返せない
宇宙実験には大きな特徴があります。
それは、非常に貴重で、簡単には繰り返せないということです。
宇宙へ実験装置や生物を運ぶには、多くの準備が必要になります。
地上の研究室なら条件を変えて繰り返せる実験でも、宇宙では同じことを簡単に行えるとは限りません。
そのため、一度の宇宙実験から得られたデータや生体試料をできるだけ有効に活用することが重要になります。
JAXAと東北大学東北メディカル・メガバンク機構は2019年に連携協定を結び、宇宙マウス実験のデータと生体試料をまとめるibSLSの整備を進めてきました。
ibSLS自体は2020年から公開されており、その後も機能や収録データの拡充が続けられてきました。
今回、統合的な研究基盤としての機能や活用方法が整理され、本格稼働が発表されました。
ibSLSでは何ができる?
ibSLSの大きな特徴は、複数の宇宙マウス実験を一つの基盤で比較できることです。
論文によると、2025年時点でibSLSには、JAXAのMHU-1からMHU-5までの実験から得られた291試料分のトランスクリプトームデータが収録されています。
トランスクリプトームとは、細胞や組織の中で、どの遺伝子がどの程度働いているのかをまとめて調べた情報です。
さらにMHU-3からMHU-5については、228試料分のメタボロームデータも収録されています。
メタボロームは、細胞や組織に含まれるさまざまな代謝物を調べた情報です。
対象となる組織も幅広く、脳や脊髄、肝臓、腎臓、骨、筋肉、脂肪組織、骨髄、脾臓などが含まれています。
そのため、「宇宙へ行ったマウスの筋肉ではどの遺伝子が変化したのか」「肝臓ではどのような代謝変化が起こったのか」といった疑問を、複数のミッションをまたいで調べられます。
データだけでなく「実物の試料」も研究できる
ibSLSは、単なるデータベースではありません。
研究者がデータを分析して新しい仮説を立てた場合、JAXAが保管する生体試料の利用につなげられることも大きな特徴です。
例えば、データ解析から「宇宙では特定の遺伝子の働きが大きく変化している」と分かったとします。
その場合、保存されている組織を使って別の方法で調べることで、その変化をさらに詳しく検証できます。
つまり、
データを見る → 新しい疑問を見つける → 実際の試料で確かめる
という研究の流れを進めやすくなります。
貴重な宇宙実験の試料を、多くの研究者が別の視点から再利用できることに大きな意味があります。

宇宙研究が「老化研究」にもつながる
ibSLSが対象としているのは宇宙生命科学ですが、その成果は宇宙飛行士だけに関係するものではありません。
宇宙飛行で見られる骨量減少や筋萎縮、代謝や免疫の変化には、地上での加齢や一部の疾患に伴う変化と共通する部分があります。
そのため、宇宙環境で起こる生体変化と、地上での加齢や疾患に伴う変化の共通点を調べることで、加齢や疾患の仕組みを理解する手がかりになる可能性があります。
例えば、筋肉が減少する仕組みや骨量が減る仕組み、代謝や免疫の変化などを、宇宙という特殊な環境から調べることができます。
ただし、宇宙飛行が地上の老化そのものを再現するわけではありません。
あくまで一部に共通する生体変化を比較し、その仕組みを研究に利用するという位置づけです。
人の大規模データとも比較する
ibSLSでは、東北大学東北メディカル・メガバンク機構(ToMMo)が蓄積してきた、人の大規模なコホート・バイオバンク研究との連携も進められています。
ToMMoでは、約15万人規模の住民を対象とした健康情報や生体試料などが蓄積されています。
宇宙マウスの研究で見つかった遺伝子や代謝の変化を、こうした人の大規模データと照らし合わせることで、地上での加齢や疾患との関連を調べることができます。
もちろん、マウスで見つかった変化をそのまま人に当てはめることはできません。
しかし、
宇宙マウスで変化を発見する → 人のデータと比較する → 新しい研究仮説を立てる
という流れを作れることは、ibSLSの大きな特徴の一つです。
「宇宙実験をする研究者」以外にも開かれる
これまで宇宙生命科学の研究には、実際の宇宙実験へ参加できる研究者でなければ扱いにくいデータや試料もありました。
ibSLSでは、すでに取得されたデータや生体試料を活用することで、宇宙実験を自分で実施していない研究者も研究へ参加しやすくなります。
例えば、老化、筋肉、骨、免疫、代謝、疾患、創薬などを専門とする研究者が、自分の専門知識を宇宙マウスのデータに応用できます。
宇宙生命科学と地上の医学・生命科学がつながることで、すでに得られている研究資源から新しい発見が生まれることが期待されています。
まとめ
JAXAと東北大学は、宇宙マウス実験から得られたデータと生体試料を研究に活用する「宇宙生命科学統合バイオバンク ibSLS」の本格稼働を発表しました。
ibSLSでは、複数の宇宙マウスミッションから得られた遺伝子発現や代謝物などのデータを横断して検索・比較できます。
さらに、データ解析から生まれた仮説を、JAXAが保管する実際の生体試料を利用して詳しく検証する研究にもつなげられます。
宇宙実験は簡単には繰り返せません。
だからこそ、一度得られたデータや試料を多くの研究者が繰り返し活用できる仕組みには大きな意味があります。
今後は、宇宙飛行士の健康管理だけでなく、地上での加齢や筋萎縮、骨量減少、代謝、免疫、疾患、創薬など、幅広い研究への活用が期待されます。
情報源・参考資料
- JAXA・東北大学「宇宙実験資源から新たな発見を生み出す統合バイオバンク『ibSLS』が本格稼働」(2026年8月21日)
- Akihito Otsuki et al., ibSLS as a biobank for democratizing access to multi-omics data and biospecimens from spaceflight research, Nature Communications(2026年)
- DOI:10.1038/s41467-026-76349-y
