脳の中には、神経の働きを活発にする「アクセル役」と、過剰な活動を抑える「ブレーキ役」の神経回路があります。
このブレーキ役が、脳腫瘍の増殖も抑えていることが分かりました。
今回調べられたのは、膠芽腫を含む「成人グリオーマ」と呼ばれる脳腫瘍です。
東京科学大学、名古屋市立大学、がん研究会などの研究チームは2026年9月8日、脳内の抑制性神経回路が、成人グリオーマの増殖を抑える仕組みを明らかにしたと発表しました。
研究チームは、腫瘍細胞が抑制性神経細胞から直接信号を受けていることを確認しました。その信号によって腫瘍細胞内のカルシウム活動が弱まり、増殖に関わる仕組みが抑えられたとしています。
マウスを使った実験では、抑制性神経の活動を高めると腫瘍の増殖が抑えられ、生存期間も延びました。患者の腫瘍から作った実験モデルでも、増殖を抑える効果が確認されています。
ただし、現時点では基礎研究です。脳腫瘍の新しい治療法が完成したわけではありません。
研究成果をまとめた論文は、米国東部時間の9月7日、日本時間の9月8日に学術誌『Neuron』で公開されました。
成人グリオーマとはどのような脳腫瘍?
「グリオーマ」は、脳の中にできる腫瘍の一種です。
脳には、電気信号を使って情報を伝える神経細胞だけでなく、神経細胞の働きを支える「グリア細胞」があります。グリオーマは、このグリア細胞に似た特徴を持つ腫瘍の総称です。
グリオーマには複数の種類があり、悪性度や遺伝子の特徴も異なります。
その中でも「膠芽腫」は、特に悪性度が高い脳腫瘍です。腫瘍細胞が周囲の正常な脳組織へ入り込むように広がるため、手術だけですべて取り除くことが難しいという問題があります。
放射線治療や薬物療法を組み合わせても再発することがあり、新しい治療法の開発が求められています。
脳腫瘍は周囲の神経から影響を受けている
がん細胞は、周囲と関係なく勝手に増えているわけではありません。
近年の研究から、脳腫瘍の細胞は神経細胞や血管など、周囲にあるさまざまな細胞から影響を受けることが分かってきました。
特に注目されてきたのが、神経細胞の電気的な活動や神経伝達物質が、脳腫瘍の増殖を促す働きです。
神経とがんの関係を調べる研究分野は「がん神経科学」と呼ばれています。
これまでの研究では、神経活動を活発にする興奮性神経回路が、腫瘍の成長を後押しする仕組みがおもに調べられてきました。
一方、正常な脳では、興奮性神経回路だけが働いているわけではありません。
神経の過剰な活動を抑える「抑制性神経回路」も存在し、両者がバランスを取っています。
では、このブレーキ役の神経回路は、脳腫瘍に対してどのように働くのでしょうか。
この点は、これまで十分に分かっていませんでした。
腫瘍細胞が神経から直接信号を受けていた
研究チームは、電子顕微鏡による観察と、細胞の電気的な反応を調べる実験を行いました。
その結果、膠芽腫を含む成人グリオーマの細胞が、周囲の抑制性神経細胞から直接信号を受けていることが確認されました。
信号が伝わる接続部分は「シナプス」と呼ばれます。
シナプスは通常、神経細胞から別の細胞へ情報を渡す場所です。今回の研究では、抑制性神経細胞と腫瘍細胞の間にも、実際に機能するシナプスが作られていました。
そこから送られる信号は、腫瘍細胞の電気的な活動を抑える方向に働いていました。
カルシウム活動を弱めて増殖を抑える
抑制性神経からの信号は、どのように腫瘍の増殖へ影響するのでしょうか。
重要なのが、腫瘍細胞内の「カルシウム活動」です。
ここでいうカルシウムは、骨の材料としての働きではありません。
細胞内では、カルシウムの濃度が一時的に変化することで、増殖や移動、遺伝子の働きなどを調整する信号になります。
研究チームがマウスの脳内で抑制性神経の活動を高めると、腫瘍細胞内のカルシウム活動が弱まり、腫瘍細胞の増殖が抑えられました。その結果、腫瘍を持つマウスの生存期間も延長しました。
反対に、抑制性神経の活動を低下させると、腫瘍の増殖が促されました。
さらに、腫瘍細胞のカルシウム活動を直接弱めるだけでも、増殖の抑制と生存期間の延長が確認されました。
一方、カルシウム活動を人工的に回復させると、抑制性神経による腫瘍抑制効果が弱まりました。
これらの結果から、抑制性神経回路がカルシウム活動を低下させ、その先にある腫瘍の増殖を抑えるという流れが示されました。
増殖に関わるYAP1とmTORも抑制
研究チームは、腫瘍細胞内で起きている分子の変化も調べました。
カルシウム活動が低下すると、「YAP1」や「mTOR」と呼ばれる仕組みの働きも抑えられました。
YAP1とmTORは、細胞の増殖や生存、タンパク質の合成などに関係しています。さまざまながんで過剰に働くことがあり、治療法を考えるうえでも注目されている存在です。
今回の研究では、抑制性神経からの信号が、カルシウム活動を通してYAP1やmTORの働きを弱め、腫瘍の増殖を抑えていると考えられます。
また、患者の腫瘍から得た細胞を使ったヒト由来グリオーマモデルでも、抑制性神経の活動による増殖抑制が確認されました。
ただし、ヒト由来の細胞を使用した実験モデルは、実際の患者を対象とする臨床試験とは異なります。
神経活動には「アクセル」と「ブレーキ」がある
今回の研究で重要なのは、「神経活動は脳腫瘍を成長させる」という単純な関係ではなかったことです。
神経回路の種類によって、腫瘍へ与える影響が異なります。
これまで主に調べられてきた興奮性神経回路は、腫瘍の増殖を促す側に働きます。一方、今回調べられた抑制性神経回路は、増殖を抑える「ブレーキ」として働くことが示されました。
つまり、脳腫瘍の進行には、腫瘍細胞の性質だけでなく、周囲にある神経回路のバランスも関係していると考えられるのです。
これは、腫瘍を単独の細胞の集まりとして見るのではなく、脳全体の環境との関係から理解する必要があることを示しています。
新しい治療法にするには安全性の確認が必要
今回の成果から、抑制性神経の働きを高めたり、腫瘍細胞のカルシウム活動を弱めたりすることが、新しい治療戦略につながる可能性があります。
しかし、現在の研究はマウスとヒト由来の実験モデルを中心とした段階です。
研究チームは今後、患者ごとの腫瘍で、抑制性神経から受ける信号の強さや反応性がどのように異なるかを調べる必要があるとしています。
また、抑制性神経回路は、正常な脳の活動を調整する大切な役割も担っています。治療へ応用するには、腫瘍に関係する仕組みを安全に制御できるか慎重に確かめる必要があります。
今回確認されたのは、新しい治療法そのものではなく、脳腫瘍の増殖を抑える新たな仕組みです。
脳には腫瘍の成長を促す回路だけでなく、抑える回路もある。
この発見は、神経とがんの関係をより正確に理解し、将来の治療法を考えるための新しい手掛かりになります。
